意見がぶつかることは、
大した問題じゃない。
むしろ、ぶつかれと
Hondaは私の背中を押す。

2007年入社

"研究開発(二輪)"

城 江美子/EMIKO TACHI

(株)本田技術研究所 二輪R&Dセンター
システム工学部 機械制御システム学科 卒業

新しいモノというよりも、
伝わるモノをつくりたい。

「ここがダメなら、どこに入ってもきっとダメ」そう思ってエントリーした会社がHondaだった。誰からも“我の強いヤツ”と言われてきた私を受け止めてくれるメーカーは、正直ほかに浮かばなかった。両親曰く、小さな頃から思ったことをすぐ口に出す女の子だったらしい。間違ったことが嫌いで、意見が違えば人とぶつかる。そんな男勝りな性格であることは認めざるを得ない。「学生生活は、社会の荒波とうまく付き合っていくための予行演習」そう思って毎日キャンパスまでジョルノを走らせていた。

機械系を志望したのはシンプルで、ずっとモノづくりに興味があったから。ただ、つくりたいモノがあったわけじゃない。どんな“場”で、どんな“チームワーク”で、モノが完成していくのか知りたかった。何万点にも及ぶ部品や大規模な生産設備といった“機械”があっても、そこに“人”がいなければ世の中には出ていかない。理想のモノづくりについて、自分なりの答えを出してみたい。そう思ったことが“機械制御システム”を専攻し、エンジニア志望の学生としてはちょっと畑違いな“経営システム”という研究室を選んだ理由でもあった。

クルマやバイクのことは詳しくないし、興味も正直に言えば強くはなかった。でも、Hondaでやりたいことは確実にあった。それは、後にも先にも“人の役に立つモノづくり”。幸運にも内定通知をもらい、二輪の研究開発部門に配属されて7年。新しいモノも大事だけど、モノに込められた想いや価値を人に伝えていきたいと思っている。ボロボロになりながらも愛され、動かなくなるまで使いたくなるモノを、私は大事にしたい。そこだけは、これからも“我の強さ”を通していきたいと思う。

“二輪の電気屋さん”の喜び。
そして、使命。

「第一希望は電装設計です」配属先での新人挨拶回り。電装室課の全員の前で訴えた。「おまえ機械系じゃないの?」「“システム”の勉強をしてきましたので・・・」「ハッハッハー!変わったヤツだなぁ」 モノを完成させるためには機械や人がいる。でも“電気”がなければ動かない。だからこそ知っておきたかった。「じゃあ“Splendor +”の後継機種の担当やってみるか。よろしく」 バイクのバの字も知らなかった私は、名前を聞いて頷くしかなかったが、調べてみて青ざめた。それは、当時Hondaがインドの現地メーカーとの合弁事業で製造していたコミューター。しかも、世界でいちばん売れている二輪だった。たとえ配属1年目の社員でも、やりたいと口に出せば任せてくれる。でも、お手並みはシビアに拝見される。この会社でモノづくりをする喜びと恐ろしさをいきなり味わった。今やバイクは電気なしでは動かない。電気が車体を支配しているといっていい。ヘッドライト、バッテリー、モーター、コントロールユニット、リレー・・・。

これが四輪となると、数百点は下らない。電装担当を総動員し、いくつものチームを走らせないと設計開発は進まない。その点、二輪は一人に任される領域がものすごく広い。メーターもウインカーも何もかも、基本的には全部自分で図面を引くし、回路図も描く。「“二輪の電気屋さん”になって良かった」エンジニア冥利に尽きるポイントだ。ちなみに、私が一番好きな電装部品は、電源の供給や信号の通信に用いる“ハーネス”。その回路図を広げると、車体中に張り巡らされている何百もの回路が一つのシステムであることが一目で分かる。担当した機種に愛着を感じてしまう瞬間だ。インドの後はタイ生産の小型コミューターを担当した。いずれにしても、私が担当してきたのは主に新興国向けだ。現地の人々にとってコミューターは“生活必需品”。ないと仕事にも行けないし、暮らしそのものが成り立たなくなる。

つまり、装備や機能を充実させることよりも、誰がどんな苛酷な環境で使っても“動きつづける”こと。それが求められているモビリティだった。電装部品は、不具合が生じれば交換を余儀なくされる。しかし、日本とは違ってすぐに交換してもらえるとは限らない。だから街には、原形を留めないほどボロボロでツギハギのバイクが走り回る。国によっては、バイクは家を買うほど勇気がいる高額商品でもある。その中で私が取った最善策は”simple is the best”。部品が少なければそれだけ価格も下がり、より多くの人に購入してもらえる。ただ、新興国向けの小型コミューターは、部品の調達から車体への組み付けまで、現地で行われることが大前提。設計を日本で終えても、機種開発の仕事は終わらない、そんな“二輪の電気屋さん”の宿命を思い知ったのは、入社6年目のときだった。

その場で問題を
解決できるのは、
その人しかいない。

「タチ、パキスタン行ってこい」 私は上司から突然そう告げられた。現地には、新機種を生産ラインに流す段取り支援のタイミングで行くのが通例。ところがこのときは、新機種の仕様が決まってこれから図面を引くというタイミングであり、異例の早さだった。「どうして現地に?」「行って話を聞いてみて」パキスタンでの事業は、Hondaが初めて海外で手掛けたジョイントベンチャーだ。技術提携から始めて約50年。ラクダやロバに変わり“国民の足”とされている二輪で、Hondaはトップブランドの地位を確立していた。街には未だに当時製造された機種がボロボロになりながら走っていたりする。空港に着いた私は工場へ直行。そして、ラインオフした二輪を見た私は、目が点になった。「図面と違うランプ、付いていませんか?」よく見ると、所どころ図面指示と異なる。視察の意味がようやく解けた。パキスタンのAtlas Hondaで働く生産現場のスタッフに、部品を供給するサプライヤーに、私はとにかく事情を聞いた。

彼ら曰く、デザインや、組み付け性の観点で、良かれと思って変えたのだと。古き良き時代の名残だった。Hondaの品質を保証する立場としては、「勝手なことをされては困ります」と怒る場面かもしれない。ただ、そんな気持ちにはなれなかった。向こうも「困っていた」のだ。数少ない駐在員と共に激務をこなす状況で、部品の調達に始まるさまざまな工程で起きた問題に対処し、改善しようと彼らは必死だった。「研究所の電気屋さんが来てくれてうれしい」そう言われた。実際に会って話をしてみて気づいたことがある。彼らは「できない」とは決して言わない。それがスタンスだった。大事なことは、現地の人々の“生活必需品”を切らさないこと。私は思った。「決められたことをやるだけが商売じゃない」その場で問題を解決できるのは、その人しかいないのだ。始まったフェイス・トゥ・フェイスでの商品開発。電装部品の不具合を洗い出し、対応策を決め、ラインに流す段取りを確認。

日本とパキスタンを何度も往復した。そして、生まれ変わったパキスタンの国民車“CD Dream”は完成。何とか発売にこぎつけた。仕事を進めるには、法規や社内規定といったクリアしなければならない“決まりごと”が多い。ただ、縛られるのも振り回されるも自分しだい。通例も、実は思い込みに過ぎなかったりする。「自分の仕事のやり方は、自分で決めればいい」と心に誓った。最近の私は、「How to remain cool in every situation, keep smiling every time.(いかに冷静でいるか、いかに笑顔でいるか)」を信条にしている。ただ、設計者として絶対に譲れないところがある。人の役に立つために、本気で仕事をする者どうしがぶつかるのであれば、何の問題にもならない。むしろ背中を押してくれるのが、Hondaらしさだと私は思う。